19世紀後半、フランスでは日本美術が大きな注目を集めました。
浮世絵、陶磁器、漆器、屏風。海を渡った日本の美術品は、それまでとは異なる色彩や構図によってフランスの人々を魅了し、やがて「ジャポニスム」と呼ばれる大きな文化現象を生み出します。
江戸時代の浮世絵から平安時代の『伊勢物語』へ、そして『古今和歌集』へ。
そのつながりをよく見せてくれる言葉が、「武蔵野」です。
エミール・ギメと日本
フランスにおける日本美術収集を考えるうえで欠かせない人物の一人が、エミール・ギメ(Émile Guimet, 1836–1918)です。
リヨンの実業家の家に生まれたギメは、世界各地の宗教や文明に強い関心を持ち、1876年には画家フェリックス・レガメーとともに日本を訪れました。
寺院を訪ね、僧侶と交流しながら、仏像や仏具など多くの品々を収集します。
ギメの目的は、単に珍しい東洋の品物を集めることではありませんでした。ものを通して、その背後にある宗教や思想、文化そのものを理解しようとしていたのです。
彼の収集品は、やがて現在のパリ・ギメ美術館へとつながっていきました。
フランスに渡った浮世絵
ギメが日本を訪れた19世紀後半、フランスでは浮世絵への熱狂が広がっていました。
歌麿、北斎、広重などの版画は盛んに収集され、フランス国立図書館や美術館にも数多くの作品が収蔵されるようになります。
日本では庶民の身近な文化だった浮世絵が、海を渡り、フランスでは美術作品として収集・保存されるようになったのです。
喜多川歌麿《武蔵野》
喜多川歌麿の《武蔵野》は、一見すると江戸時代の女性たちを描いた華やかな美人画です。
ところが、その主題は平安時代の『伊勢物語』にまで遡ります。
江戸時代の浮世絵には、古典の有名な場面をそのまま描くのではなく、登場人物を当世風の美人などに置き換える「見立て」という趣向がありました。
歌麿の《武蔵野》も、『伊勢物語』第12段を下敷きにした見立てです。
つまり、江戸時代の女性たちを描いた画面の向こう側に、平安時代から伝えられてきた物語があるのです。
江戸時代の「武蔵野」
現在の私たちにとって武蔵野は、東京西部から埼玉県南部に広がる地域の名称です。
しかし、江戸時代の人々にとって「武蔵野」という言葉は、現実の地名であると同時に、古典文学によって形づくられた特別な風景でもありました。
どこまでも続く野。生い茂る草。秋の月や露。
そうしたイメージが、長い年月をかけて「武蔵野」という言葉に重ねられていきました。
江戸の人々が武蔵野を描いた絵を見るとき、そこには実際の風景だけではなく、昔の和歌や物語の記憶も重なっていたのです。
歌枕としての武蔵野
その背景にあるのが、和歌の「歌枕」という文化です。
吉野といえば桜、龍田川といえば紅葉、というように、ある地名を聞くだけで特定の季節や風景、感情が呼び起こされる。武蔵野もまた、そうした文学的な地名となりました。
中世になると、武蔵野はとりわけ秋草や露、月などと結びつき、広々とした野のイメージをまとっていきます。
その「武蔵野」の文学的な記憶をさらに遡っていくと、『伊勢物語』の印象的な物語にたどり着きます。
『伊勢物語』第12段――武蔵野を焼かないで
『伊勢物語』第12段では、ある男が女を連れ出し、武蔵野へ逃げます。
やがて追手が迫り、男は女を草むらに隠します。追ってきた人々が野へ火をつけようとすると、女は歌を詠みます。
武蔵野は
今日はな焼きそ若草の
つまもこもれり
我もこもれり
「武蔵野を、今日は焼かないでください。愛する人も隠れていますし、私もここに隠れています」という意味です。
広大な草原、身を隠す男女、迫る追手、そして野を焼こうとする火。
短い章段ですが、非常に映像的です。
歌麿が《武蔵野》で見立てたのは、この『伊勢物語』の場面でした。
ところが、この歌にはさらに古い姿があります。
「武蔵野」は、もともと「春日野」だった
同じ歌が『古今和歌集』にも収められています。
ところが、その冒頭は「武蔵野」ではありません。
春日野は
今日はな焼きそ若草の
つまもこもれり
我もこもれり
『伊勢物語』では「武蔵野は」。
『古今和歌集』では「春日野は」。
春日野は現在の奈良市、春日山の麓に広がる野です。
しかも『古今和歌集』では、『伊勢物語』のような駆け落ちや追手の物語は語られません。
春の野を焼かないでほしい。愛する人も私も、若草のなかにいるのだから――。
もともとは、そのような素朴な春の恋歌だったと考えることができます。
ところが『伊勢物語』では、奈良の「春日野」が東国の「武蔵野」に置き換えられ、さらに「駆け落ち→追手→野焼き」という物語が与えられています。
なぜ「春日野」は「武蔵野」になったのか
近代の注釈、『新編日本古典文学全集』などでは、この第12段を、もともとの素朴な春の恋歌を「駆け落ち→追手→野焼き」という波乱の物語に仕立て直した「改作」として捉える見方が一般的です。
その背景として指摘されるのが、『伊勢物語』における章段の配置です。
第7段から第15段には、三河、駿河、武蔵、隅田川など、東国を舞台とする話が集められています。
そのため、東国を舞台とする一連の物語にまとめるために、もともとの歌にあった「春日野」を「武蔵野」へ意図的に付け替えた、と考えられています。
つまり、『古今和歌集』の歌が『伊勢物語』に取り込まれる際、地名が「春日野」から「武蔵野」へ改変され、それに合わせて駆け落ちと追跡という物語が作られた、という解釈です。
歌麿の《武蔵野》が描いているのは、そうして『伊勢物語』のなかで新たに生み出された「武蔵野」の物語なのです。

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