フランス語に terroir という言葉がある。
ワインについて語るときによく耳にする言葉である。土壌や気候、地形といった自然条件だけでなく、その土地で長く営まれてきた農業や技術、食文化、人々の暮らしまで含んだ「土地の個性」を意味する。
ところが、フランス語の日本研究誌『Ebisu』を読んでいて、意外なところでこの言葉に出会った。
柳田國男らが用いた「郷土」という言葉が、terroir と訳されているのである。
しかも、その舞台は「武蔵野」だった。
「郷土」を terroir と訳すと、武蔵野はどのように見えてくるのだろう。
1.フランス語の日本研究誌『Ebisu』が取り上げた「武蔵野」
フランス語の日本研究誌『Ebisu』には、「Musashino」を東京西部の一地域として正面から扱った興味深い論文がある。
池谷匠「Musashino et les débats autour de la recherche sur les terroirs」(「武蔵野と郷土研究をめぐる葛藤」)、『Ebisu』34号、2005年、125–146頁である。池谷の日本語論文「武蔵野――郷土研究をめぐる葛藤」を Frédéric Lesigne が紹介・仏訳したものだ。
この論文を読むと、1910年代から20年代にかけて、「武蔵野」が郷土研究や民俗研究の対象として一種のブームになっていたことがわかる。
現在、武蔵野という言葉から私たちが思い浮かべるのは、雑木林や玉川上水、畑の残る住宅地、あるいは吉祥寺・三鷹・国分寺など東京西郊の風景かもしれない。
しかし大正期の武蔵野は、単に「東京郊外の美しい風景」ではなかった。
考古学、人類学、歴史、民俗、地理など、さまざまな分野から調査される「研究対象」になっていたのである。
その中心の一つとなったのが、鳥居龍蔵らが1917年に設立した武蔵野会だった。
武蔵野という土地を総合的に研究しようとする人々が集まり、一時は数百人規模の会員を擁したという。
つまり当時、「武蔵野を研究する」ということ自体が、一つの知的運動になっていたのである。
2.フランスでは柳田國男はどのように読まれてきたのか
フランス語圏の日本研究には、柳田國男を読む蓄積がかなり早い時期から存在する。
1924年のフランス語誌『Japon et Extrême-Orient』では、すでに松本信広が柳田らによる日本の folklore 研究を紹介し、Serge Elisséeff(セルゲイ・エリセーエフ)が柳田編集の『炉辺叢書』を詳しく紹介していた。
つまり柳田は、日本民俗学が制度として確立してからフランスに紹介されたのではない。
柳田自身が民俗学という方法を作りつつあった時代から、フランス語圏の日本研究者はその動きを見ていたのである。
その後も柳田研究は続いている。
『Ebisu』には1994年に Véronique Perrin による柳田論が掲載され、2010年には藤井隆による『遠野物語』論もフランス語で掲載された。
フランスに巨大な「柳田学派」が存在するということではない。
しかし、日本の民俗学、民族学、宗教史、社会史などを考える際に、柳田國男を重要な研究者として読む伝統は確かに存在する。
その文脈の中で見ると、『Ebisu』が「Musashino」を固有名詞のまま提示していることも興味深い。
Musashino は単なる「東京郊外」ではない。
歴史的に形成され、文学的に表象され、さらに近代日本の郷土研究の方法論が試された固有の地域として扱われているのである。
3.武蔵野論争――柳田國男と鳥居龍蔵
では、なぜ武蔵野をめぐって柳田國男と鳥居龍蔵の間に対立が生まれたのだろう。
池谷論文の核心はここにある。
鳥居龍蔵にとって、武蔵野は明確な地域研究の対象だった。
考古学、人類学、歴史、風俗などの資料を集め、その土地そのものを総合的に記述する。
鳥居はのちに『武蔵野及其周囲』(1920年)、『武蔵野及其有史以前』(1925年)などを刊行している。
一方、柳田が問題にしたのは、
「武蔵野という一地域を詳しく調べれば、それで郷土研究になるのか」
ということだった。
柳田が目指していたのは、一地方の珍しい風俗を収集したり、郷土の歴史を愛好したりすることだけではなかった。
一つ一つの土地に残る言葉、習俗、信仰、伝承、生業、地名などを比較しながら、その背後にある日本社会の歴史を明らかにしようとしていた。
したがって、柳田と鳥居の違いは、
「武蔵野について何を知っているか」
という知識量の争いではない。
むしろ、
「武蔵野を研究するとは、いったい何をすることなのか」
をめぐる方法論上の対立だった。
そして、ここに柳田の「武蔵野趣味」への批判もつながってくる。
4.柳田國男にとって「武蔵野」とは何だったのか
武蔵野を語るうえで避けて通れない人物が、国木田独歩である。
1898年に発表された『武蔵野』は、雑木林、落葉、野道、夕暮れといった東京近郊の風景を、新しい美的対象として発見した作品だった。
独歩以降、人々は東京の西郊に「武蔵野らしい風景」を見るようになる。
柳田は1919年前後の文章で、このような「武蔵野趣味」に批判的な目を向けている。
ただし、これは独歩文学そのものを単純に否定したという話ではない。
興味深いのは、柳田が独歩の武蔵野観さえ、まったく新しいものではないと考えていたことである。
武蔵野には、それ以前から長い表象の歴史があった。
古典文学の武蔵野。
江戸時代の武蔵野観。
明治の国木田独歩による武蔵野。
そして大正期の「武蔵野趣味」。
さらに郷土研究の対象としての武蔵野。
私たちは現実の武蔵野を見ているつもりでも、実は過去の文学や絵画、言説によって作られた「武蔵野らしさ」を通して風景を見ているのかもしれない。
柳田が警戒したのは、まさにそのことだったのではないだろうか。
「武蔵野らしい風景」を先に決め、そのイメージに合うものを現実の土地から探してしまう。
それでは土地そのものの歴史を見失う。
柳田的な郷土研究が向かおうとしたのは、その反対側だった。
なぜここにこの道があるのか。
なぜこの地名が残っているのか。
人々はどのように水を得たのか。
何を作り、何を食べ、どのような信仰を持ち、どのような関係を結んで暮らしてきたのか。
目に見える「風景」の背後に、人間の生活の歴史を見るのである。
1955年の雑誌『俳句』9月号には、柳田國男、山本健吉、加藤楸邨、角川源義による座談会「武蔵野を語る」が掲載されている。
柳田にとって武蔵野は、大正期だけの一時的な関心ではなかった。
長い時間をかけて考え続ける対象だったことがうかがえる。
5.「郷土」を terroir と訳す意味
ここで、最初の疑問に戻りたい。
なぜ「郷土」を terroir と訳すのだろう。
Frédéric Lesigne は、池谷論文のフランス語訳で kyōdo を terroir と訳している。
そして注釈では、kyōdo は通常「故郷」「郷里」を意味すると同時に、その土地の文化をも意味すると説明している。
この翻訳はとても示唆的だと思う。
フランス語の terroir は、単なる行政区域を意味しない。
土地、地形、気候、そこで営まれてきた農業や技術、生活文化、伝統などが長い時間をかけて結びついた場所を指す。
だから「郷土研究」を recherche sur les terroirs と訳した瞬間、それは単なる études locales、つまり「地方についての研究」とは少し違うものになる。
土地と人間の長い関係そのものを研究するものになるのである。
この言葉を通して見ると、柳田の武蔵野も違って見えてくる。
武蔵野は東京西部に存在する一つの行政区域ではない。
むしろ近代東京のすぐ外側にある具体的な土地を通して、
「郷土とは何か」
「一つの土地を調べることから、日本社会全体について何を知ることができるのか」
という問いが試された場所だった。
その意味で武蔵野は、日本民俗学が自らの方法を考える一つの実験場だった、と言えるのかもしれない。
6.私にとっての terroir musashinois
では、現在の武蔵野に terroir は存在するのだろうか。
典型的な terroir は、
「土壌+気候+農業+食文化+人間の技術」
といった長期的な組み合わせとして理解される。
しかし武蔵野の場合、その組み合わせは少し違うのではないか。
私が考える terroir musashinois は、
武蔵野台地+水+雑木林+畑+街道+新田+鉄道+住宅地
である。
ここで重要なのは、「自然が残っているから武蔵野なのだ」と考えないことである。
武蔵野の雑木林そのものが、純粋な原生自然ではない。
人々が木を薪炭として利用し、落葉を集めて肥料にし、その肥料で畑を耕す。そうした長期間の利用によって維持されてきた二次的自然である。
玉川上水をはじめとする水の仕組みが作られ、新田が開発され、街道が通り、屋敷林と畑が作られた。
近代になると、そこに中央線などの鉄道が入り、住宅地が広がった。
さらに戦後には人口が増え、農地が住宅やマンションに変わり、商店街や学校、公園、図書館などが新しい生活圏を作ってきた。
だから私は、現代の terroir musashinois を、ひとまず次のように考えてみたい。
乾いた台地を、人間が水・林・畑・道・鉄道・住宅によって、何世代にもわたって「住める場所」へと作り替えてきた、その土地利用と生活の累積。
この定義なら、玉川上水と雑木林だけが「武蔵野」なのではない。
吉祥寺のカフェも、境の住宅地も、小金井の崖線も、国分寺の湧水も、畑も、商店街も、中央線も、それぞれ別の時代に形成された同じ土地の層として見ることができる。
そして本当は、そこにもう一つ加える必要があるのだと思う。
人と人とのつながりである。
学校、祭、神社、商店街、自治会、防災、福祉、葬礼。
あるいは、地域の子どもを見守る人、祭の準備をする人、公園を掃除する人、畑を続ける人、昔ここに何があったかを覚えている人。
土地は、物理的な景観だけでは terroir にはならない。
そこで暮らす人々が土地を使い、世話をし、記憶し、次の人へ手渡していくことで、土地に時間が蓄積していく。
そう考えると、武蔵野の terroir は「保存された昔の風景」ではない。
むしろ、
人々によって絶えず更新されながら、それでも過去の土地利用と生活の痕跡を引き継いでいる場所
なのではないだろうか。
「昔ながらの武蔵野」を探すのではなく、現在の住宅地や道路や学校や商店の下に、どのような時間が積み重なっているのかを見る。
そして、そこで現在どのような人と人との関係が作られているのかを見る。
それが、柳田國男の「郷土」を terroir と訳すことから、いまの武蔵野について私が考えてみたいことである。

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